生きる、ということの証明

今の日本の若者には「通過儀礼」というものが一切欠けている
モンゴルでは遊牧民の青年が成人と認められるには財産である羊の命を奪わなければならない
バリエーションこそ違っても男子はそのように成人していくものなのだ
米国は宇宙にばかり先行投資しているのではなく
極秘裏に莫大な予算を脳や超常現象に注ぎ込んできた
第二次世界大戦後、米国の半植民地として微温的な政策を施されたがゆえに通過儀礼が欠如したこの国の若者が
TV、漫画、アニメ、ゲーム漬けで成人すれば
情報の分析も不能でただひたすら刺激だけを追い求め
人生がガセネタで規定されてしまうのは当然だろう
いわゆるオタクのことだ
現在ではまだアキバ系だの性犯罪者だのギャグとしてしか語られることはないが
やがて現実と虚構を完全に転倒した、しかも狂人ではない「ニュータイプ」が出現するのは必然なのだ
人類は火や道具を操れるようになって飛躍的な生存条件をものにした
コトバ、印刷機、電波による放送、そしてインターネット
これ以後もキリなく追求するだろう
だが同時にある重要なコミュニケーション能力を失ってしまった
それは、神、精霊、霊などの神秘的存在と対話するコミュニケーション能力だ
人類史でのある段階ではこのようなことは別に異常ではなかった
呪術が現実を変更してしまうような世界観は果たして野蛮で狂っているのだろうか?
テクノロジーの発達と人間の幸福=充足は並行しているのだろうか?
逆ではないのだろうか?
それは荒涼とした砂漠、あるいはチベットの秘境、平安時代の熊野
どこでもいい
修行を積んで霊的スキルを見につけた偉大な宗教者のみが可能だったコトバに頼らぬコミュニケーションや体外離脱を
いともたやすく可能にする存在、それが二次元オタクだ